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この湖は杭州の西にありますので、西湖といいます。また、中国の四大美人の西施のように美しいなので、西湖と言うようになったとも言われています。三面は山に囲まれていて、一面だけ市内に面しています。西湖は自然の湖です。もともとは、銭塘江の入り江でした。海に繋がっていました。後に海から運ばれた砂により、だんだん海から離れて、自然に湖へと形づくられました。初めのうちは、西湖の水は、塩辛い海の水だったのです。後になって、山からの泉の水と雨水によって、だんだん淡水化されました。今の湖の面積は6.8㎢、湖は比較的浅く、平均水深は1.8メートルです。日本の琵琶湖が約670㎢ですから、その約100分の1の大きさですね。
12000年前、銭塘江の入り江が、山の砂などでふさがれて、杭州市の西側に美しい湖ができました。
元々10㎢あった西湖ですが、北宋の有名な政治家であり、詩人である蘇東坡が杭州で太守、日本の知事に当たる官僚に就任した時、湖が浅いため、杭州の庶民がよく湖の周りに菱、蓮とさまざまな植物を植えて、湖の面積がだんだんと小さくなっていきました。そこで、彼は湖をきれいにするために、湖の下の土で、湖の南から北まで長さ2.8キロ、この真っ直ぐな橋を築きました。これは後に蘇堤と呼ばれるようになりました。また蘇東坡よりさらに昔、唐代には、白楽天が杭州で太守をし、杭州の庶民のためにたくさんよい事を行ったので、後に彼を記念して、孤山から北山街までの長さ1キロの橋を白堤と言うようになりました。
湖の中には人工の島が三つあります。小瀛洲またの名を三譚印月島と言いますが、これは1607年湖底の土で造られたものです。面積約7万㎡、その半分が池のようになっていて、湖に島があり、島に湖があると、いう何とも不思議な景色になっています。当時、蘇東坡は、湖を守るために、石塔を3本築いて、その中では何でも植えてはいけません、という目印にしました。これがなければ、現在の西湖はなかったかもしれません。小瀛洲を築いた後、その島の南側に蘇東坡の石塔をまねて、三つの石塔が建てられました。球形の塔には5つの小さなまるい穴があけられています。中秋の名月の夜に3つの塔の中に火を点して、外側に白い紙を貼ると、小さなつきのような光が湖面に映ります。月が昇ればその輝きが、塔の光と湖に映りあって非常に魅了的な風景になります。1552年湖の真ん中の辺りに築いた島は湖心亭と言われ、もうひとつは阮公墩といいます。 |
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六和塔は銭塘江の北側にある月輪山の上に聳え立つ塔です。記載によりますと北宋、970年に建立されました。
昔 銭塘江の逆流が非常に激しいため、河の両側の堤防が崩されて土地や家屋も流されました。呉越国の国王銭弘俶がその逆流を鎮めるために造ったもの、と言われています。当時、灯台の役割も果たしていました。
塔の名前の由来には諸説あります。一つが、北宋の時代、塔の後ろにはお寺があって、そのお寺の名前を六和寺といいました。六和というのは、仏教の六つの戒めを指します。則ち、妄語、偸盗、邪淫、飲酒、殺生の禁止、臭いもの、たとえばにんにく、にらなどを食べてはいけない、この六つの戒律のことです。ここからとって、六和寺と名付けられ、塔もお寺の名前から六和塔と名付けられた、と言われています。
また別の説によれば、水滸伝の中の有名な人物、魯智深、武松、林冲その三人が六和寺で出家したそうです。
東南西北と天と地の六つの方角のことを、六合といいますが、六 “合”と“和”の発音が同じなので六和塔といわれた、という説もあります。
塔は完成してから、何度も戦火にあいました。今の塔の中心部分が南宋の時代1年間かけて造られたものですが、塔の外側の木造の部分は、1900年に修復されたものです。その後また何回も修復されています。
外側が木造で、真ん中レンガ造りです。レンガとレンガの間に石灰、もち米のおかゆ、卵を混ぜて接着剤として作られました。高さが約60メートルで外から見ると13階立てに見えますが、実際中は7階しかありません。螺旋状のような階段があり、226段あります。頂上まで登ることができます。塔は八角形の形をしています。
各階のひさしにはもともと航路の標識、として提灯がつけられていましたが、火事が危ないなので、そのかわりに104個の鉄の鈴がつけられています。
文献によると、最初塔は9階立てで、170メートルあったそうです。北宋の有名な職人喩皓も設計に参加して、彼の書いた木経によって造られたそうです。六和塔は1961年に国グラスの重要な文化財に指定されました。
銭塘江は逆流で有名な川で、全長が約610キロで、一年中一番激しいのが旧暦の8月18日です。その時は、10万トンの海水が、25キロの時速で、80キロぐらい走ります。その逆流を形成する原因は主に二つあり、その一つは太陽と月の引力、もう一つは銭塘江の川口はラッパ状で杭州湾に接しており、川の幅広い所が100キロで、川の奥のほうにくるとその幅が3キロしかない、という地理的条件によります。
高潮の時、海水が川の奥へ行く程盛り上がります。奥に行くと川の幅がますます狭くなるため潮も高くなり、そして23メートルの飛沫を上げてごうごうと大きな音を立ててつぎからつぎへ逆流します。はっきりと観賞できる所は杭州から50キロ離れている塩官です。世界で、逆流観賞できる場所は2ヶ所しかありません。もう1カ所はブラジルのアマゾン川です。
銭塘江の逆流には次のような物語もあります。
銭塘江を挟んで、北は呉の国、南岸は越の国でした。呉の国の将軍伍子胥は呉王夫差が越王勾践の降伏を許したのを警告しましたが、聞き入れられず自害しました。しかし伍子胥の懸念通り、のちに呉は越に滅ぼされてしまいます。伍子胥の魂は怒って高潮を立てて、それに乗って呉王夫差の失敗を見に来ている、そうです。
六和塔から見下ろすと銭塘江第一鉄橋が見えます。それは1934年から1937年にかけて造られたものです。全長が1453メートルで、上はニ車線の道路で、下は鉄道になります。あれは中国人自分で設計して自分の力で造ったものです。今、銭塘江の上には六本の橋があります。 |
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銭塘江は浙江省の一番大きな川で,昔は羅刹江と呼ばれ、江西省と安徽省の境目に位置しています。全長610キロで、浙江省に入ってから、淳安県、建徳市、桐盧県、富陽市、杭州市を流れています。
【川沿いの風景名勝区】
大型の水力発電所新安江発電所、富春江水力発電所、淳安の千島湖、建徳の白沙大橋、桐盧富陽川沿いの天子岡、桐君山、厳子陵釣台などの名勝地があります。
【大逆流の観賞歴史、観賞名所、観賞時間】
大逆流を観賞に一番良い時期は南宋時代です。南宋代、秋は水兵の観閲時期に重ねでいるので,一つの祭となっています。この風習は元,明、清までずっと続いています。明朝からこれまで海寧の塩官鎮は大逆流を観賞する一番の名所でした。
しかし,現在は川を埋め立てることによって川の流れ道は変化して、涌き潮は一度蕭山の頭蓬に移り変わり,杭州の七堡,八堡でも涌き潮を見られます。旧暦の8月18日前後が観賞に一番いい時期で、「八月十八潮、天下に絶する」と称えられています。
この大逆流は、銭塘江が海と接している所が広くて、奥へ流れていくと狭くなる、ラッパの形をしている地理的原因で起きる、と言われています。加えて、月の満ち引き、川底の砂の堰(せき)、川の水と海水のぶつかり、など複合的な要因が重なって大逆流は起きます。 |
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霊隱禅寺は西湖の西北の北高峰にあって、“雲林禅寺”ともよばれています。インドの僧彗理が東晋の時代、326年に創建し、1600年以上の歴史があります。霊隱禅寺のスケールは大きく、「東南第一禅院」と呼ばれています。
寺の前に御碑亭が有り、清の皇帝、乾隆帝が6回も霊隱寺に来て、40首の詩を詠み、御碑に刻んでいます。この天王殿の額には康煕帝によって「雲林禅寺」また、近代有名な仏教居士、書道家の黄元秀が書いた「霊鷲飛来」があります。
天王殿にある四天王は高さ8メートルある仏教伝説の中の風調雨順をまもる神様です。前には、笑顔の弥勒仏、その後ろに韋陀天像があり、これは一本の楠木で造られた宋代のものです。
大雄宝殿には、現代有名な書道家沙孟海が書いた額があります。中のお釈迦様は唐代の仏像をまねて.24本の楠で彫刻し、高さは24.8メートルあります。顔が慈愛に満ちており、中国の寺院の第二大仏と言われています。
大殿の両側は「二十諸天」、後に座っているのは「十二弟子」です。
後ろの壁には善財童子が五十三人の名師を歴訪、最後に悟リを得る仏教の逸話が描かれている。五十三箇所の仙山に、大小の仏像が計156体あリ、それぞれいきいきと、描写されています。これらの像は、宗教芸術で相当の価値があります。
天王殿の前には北宋969年に建てられた経幢が二基あって、東側のものが、高さ7メートル、西側のものが11メートルあります。多層の八角形で、精緻な彫刻が施されています。
大雄宝殿の前には、九重八角楼閣式の二基の石塔があり、これも北宋960年に建造されたものです。高さ12メートルで、典型的な宋代の建築洋式です。 |
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壁には「咫尺西天」と書いてあります。「西天」とは極楽世界を指しています。「咫尺」とは距離がとても近いことです。これは、ここが極楽世界からとても近い場所ということを表しているのです。飛来峰は、文字の通り、飛んで来た山です。飛はとぶという飛で、来はくるという来です、飛来峰に関する伝説はいろいろありますが、その中でも霊隠寺の開山僧、彗理と関係のある話をご紹介します。
今から1600年前のことです。彗理は天竺(今のインド)から杭州に来て、この山を見てインドの霊鷲山の一角である須弥山と似ているので、もしかしたらこれはインドから飛んできたのではないかと思い、これを飛来峰と名付けました。そのため飛来峰は霊鷲山とも呼ばれています。
飛来峰は標高160メートル、2つの大きい山の間にぽつんと立ち、周りの山と違う石灰石でできており、まったく違った感じです。飛来峰には洞窟が72個あり、五代十国時代から彫られた石像が338体も残っています。
前方に見える塔は霊隠寺の開山僧である彗理の仏舎利塔です。1590年に建てられました。高さは9メートル、六角、七重の塔です。塔の表面には塔の名前と金剛経、仏像などが彫られています。塔の下には恵理お坊さんの舎利と遺品が納められていると言われています。
まずは72個の洞窟のうち、青林洞、玉乳洞、通天洞へご案内致します。
青林洞は飛来峰で一番大きい洞窟です。入り口の上部には西暦951年に彫った勢至菩薩、観音菩薩、阿弥陀如来があります。これは中国で言う西方三聖です。これは飛来峰で歴史が一番古い仏像です。
青林洞の隣にあるのが玉乳洞です。入り口の右に彫られているのは財神だそうです。自分の右手で財神の右手を触ってから、その手をポケットの中に入れると一年間金銭運がよいです。
ここが通天洞です。入り口のそばにある像は「西遊記」に出てくる人物です。中の像は宋代に彫った観音菩薩の像だそうです。隣の洞窟は射旭洞で有名な「一線天」がその中にあります。「一線天」は洞窟の天井にある星のような小さい穴で、その穴は深く仏教に帰依している人にしか見えないと言われています。それで、たくさんの仏教信徒が「一線天」を見ようと、わざわざ遠いところからここに来ます。見つけた人は喜び、見つからなかった人はとてもがっかりしました。そこで、一人のお坊さんがここの石に「知足常楽」、すなわち「満足感がある人こそ楽しい人になれる」という字を書きました。出口の右上には「来て見れば故郷の秋や飛来峰」という日本語で書いた俳句が刻まれています。
飛来峰にある338尊の摩崖仏の中で一番有名な仏像は向こうに見える弥勒菩薩の像です。弥勒菩薩は恰幅のいい恰好をしていて、朗らかで、口を大きくして笑っているので、誰もが、どんなに悩みがあっても、あの弥勒菩薩を見ることで、全て忘れて、すっきりした気持ちになることが出来ます。この像は飛来峰のシンボルです。引き続き、霊隠寺をご案内します。 |
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河坊街は、杭州の歴史上、最も有名な商店街です。このエリアには元の清河坊、鼓楼、呉山があり、また胡慶余堂、胡雪岩旧居、南宋御街など名所旧跡があります。杭州悠久の歴史の縮図とも言えるところです。
南宋が杭州に都を定めた後、現在の呉山の東南部にある鳳凰山の麓に紫禁城を築きました。そしてこの紫禁城から市内へ長さ十里(約5キロ)の皇族専用の道、「天街」(現在の中山中路)を開きました。清河坊は前を南宋の紫禁城に、後ろを河坊街に接していました。「前に皇居、後ろに市」、そして、紫禁城の外、「天街」の両側には、皇族や貴族等家臣が相次いで私邸を建てました。
清河坊の名前の由来は、当時の総帥張俊と関係があります。1129年、張俊は明州、現在の寧波で金の兵を撃退し、大勝し、晩年には清河郡王に封じられ、大変厚遇されました。彼は今の河坊街太平巷に清河郡王府を建てました。庶民に敬愛された王の名前をとって、この一帯を「清河坊」と呼ぶようになりました。昔は「前朝後市」と呼ばれており、元、明、清と民国時代を経て解放前に至るまで、この一帯はずっと杭州の商業繁華街であり、杭州の老舗はここに集中していました。
特に清河坊は宋と清代に盛んになり、当時、この当たりは店舗が林立して、布の市、米の市、居酒屋、茶屋、劇場がずらりと並び、商売が盛況で、人々が昼夜絶えずに往来する杭州で最も賑やかな商業区でした。
老舗、名店の旗が揺れ動き、老舗漢方薬局の胡慶余堂(こけいよどう)、ハム屋の万隆火腿荘(ばんりゅうかたいそう)、タバコ屋の宓大昌(ヒツオオショウ)煙草店、もその頃のものであり、今もその姿を目にすることができます。
百年前の漢方薬の老舗-「胡慶余堂」は、官僚商人胡雪岩が1874年に創立した薬局です。北京の有名な漢方薬局同仁堂と応じて、「北に同仁堂があれば、南に胡慶余堂があり」という言い方があります。胡慶余堂自体、とても豪華な建物です。前が店頭で、奥が作業場という建築様式です。現在中国漢方薬博物館となっています。
2000年4月頃から杭州市政府は、新景勝区の開発も開始しました。「古跡を大事にしよう」という原則の下で、正確に昔の町並みの再現に努めました。現存の古い建築の大部分は明代末期、清代初期に建てられたもので、いまも鮮やかに姿を残しています。これらの建築を保護すると同時に、先ほど皆様にご紹介しました河坊古街の開発が始められました。新しく開発されたこの河坊街は特色のある商店街です。宋代を疑似体験できます。ショップに並ぶ品物も南宋時代の文化のもので、非常に興味深いストリートです。杭州名産の伝統シルク店や宮廷に愛された小物などを見ながら、のんびり宋時代の栄華を感じてみましょう。 |
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雷峰塔は西湖十景の中の一つである「雷峰夕照」の所在地です。中国ではよく知られている神話、「白蛇伝(はくじゃでん)」はここが舞台です。中国人に雷峰塔のことを話すと、誰もが、すぐに美しい白娘子という女性を思い出します。
「白蛇伝」とは、許仙と白蛇の精、白娘子の悲恋の物語です。彼女は蛇の正体がばれたことで、法海和尚に塔の下に生き埋めさせられました。ここに来た多くの観光客が、西湖を観光するほか、みな雷峰塔に来て、物語を思い出します。
しかし、実際は、物語の通り、法海和尚が白娘子を生き埋めにした場所では決してありません。当時、呉越国国王の王妃(おうひ)が男の子を産んだことを、国王はたいへん喜び、この塔の建立を命じ、王妃塔と命名しました。もともと仏様の髪の舎利と84000巻の仏教の経文を収めるため、13階のタワーを立てる予定でしたが、お金が足りなくて、7階に変更しました、しかし竣工後、結局5階立てにしかできませんでした。
都市の西の郊外にあるので、庶民たちはまたそれを「西関塔」と呼んでいました。後に、人々は塔が雷峰という小さい山の上にあるので、「雷峰塔」と呼び改めました。
明代、倭寇が中国の東南沿海に侵入しました。当時倭寇は雷峰塔に伏兵(ふくへい)が隠れていると思い、雷峰塔を焼き払いました。ただレンガ造りの塔の黄色い中心の部分だけが残っていました。当時杭州の人は非常に迷信的です。雷峰塔のレンガを家に置くと、鬼を追い出し、邪気(じゃき)を避けることができる、と考えました。結果、レンガがたくさん取られて、最下層のレンガが空っぽになり1924年9月25日午後、ついに雷峰塔は倒れてしまいました。近年再建された雷峰塔は5階建てで、八角のそりひさしの楼閣タイプの塔です。鉄骨構造で元の土台を台座にして造られました。これは同時に遺跡を保存する建築物になっています。塔の土台より下の2階が八角形の形をしています。土台の周りには石製の欄干が飾ってあります。
塔は非常に豪華絢爛です。高さは71メートルで、建築面積は6089㎡。1階の扁額(へんがく)の上に書いてある「雷峰塔」という字は元中国書道家協会主席兼西冷印社社長の啓功先生によって書かれたものです。
西湖の保俶塔と向かい合っています。夕日が西に沈む時、雷峰塔は夕日に照らされて、人々の心を引き付けます。この美しい雷峰塔と夕焼けを「雷峰夕照」といって、西湖十景の一つにあげられます。新しくできた塔も、昔と変わらず西湖を眺める一番いい場所です。近くの南屏晩鐘、花港観魚、蘇堤春暁、三壇印月、柳浪聞鶯、遠くの曲院風荷、平湖秋月、断橋残雪、西湖の美しいを景色すべて目に収めることができます。 |
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城隍閣をご案内させていただきます。城隍閣とその周辺は最近改修されました。比較的新しい建物です。
ここが城隍閣の入口です。まずこちらの浮き彫りをご覧ください。この浮き彫りの長さは27メートルで、高さは6メートル、花崗岩でできています。呉山風情図と言うこの浮き彫りは杭州歴史上一番栄えた南宋時代の城隍廟とその周辺の繁栄を描いています。またこの手前にある四本の柱は広場の飾り物です。斗拱(とうこう)という中国の古代建築デザインで、古代建築の力と美を表現しています。
そしてこの呉山風情図の向こう側にある壁には「呉山大観」という4文字が刻まれています。清代の康熙帝が書いた字のです。この壁の長さは17メートルで、高さは3メートル。清の時代に李衛と言う人が呉山の上に大観台という展望台を築きました。この大観台から銭塘江、西湖、杭州市内、周辺の山々を一望でき、呉山一番の名所になりました。さらに、呉山は昔から古い木々、奇岩怪石、宗教寺院、民俗風情、名人旧跡が多くあり、呉山大観が清代に「錢塘二四景」の一景に選ばれました。確かに文字とおりに大観、壮大な眺めですね。
まず城隍という2文字を皆様に説明させていただきたいと思います。城は城壁のことで、隍は城壁を囲む外堀のことです。城隍があってはじめて、安泰な街と感じることができます。そこで春秋時代から城隍神に、城郭を守ってもらうように祈る祭りがありました。
魏晋南北朝時代以後に入り、儒教、道教、仏教の影響を受けて、城隍神は単なる城郭を守る神様ではなく、善悪報い、礼儀、道徳などのイメージを持つ神様になりました。おそらく中国どこの町へ行っても必ず城隍廟を見かけると思います。上海の豫園周辺が一番代表的なところです。
呉山城隍廟は1139年に作られ、明の時代から周新という人物を祭るようになりました。周新は明の時代に浙江省の地方長官を勤めた人で、剛直(ごうちょく)で人におもねることを知らず、または厳格に法律を執行して、大衆からよく敬愛される人物でした。残念なことに、後に人に陥れられて、皇帝に殺されてしまいました。そこで、民衆が怒りました。この怒りを治めるために、皇帝が、「周新はすでに杭州の城隍神になった」といって、城隍廟を修繕して周新を祭ることとなりました。
今の城隍閣は1998年に着工し、2000年に竣工した観光用の楼閣です。高さは41.6メートルで、面積は3789㎡です。建築様式は南宋と元代のものを取り入れています。全体はコンクリート建築ですが、一部手すりと門の彫刻等は木造です。木材は楠木、椴(むくげ)等を使用しています。7階建てで、1階と2階は杭州の民俗風情を展示しています。3階から6階までは、展望用のフロアーです。
一階のこの塑像の名前は南宋杭州風情図と言います。作品の長さ30メートルで、高さ3.6メートルで、2年間の歳月を費やして出来上がったものです。全体は3500体の像もあり、それぞれ表情と姿が違います。南宋時代の紫禁城と、「天街」(現在の中山南路)の様子と庶民の日常生活、祭り時の光景、杭州の物語が生き生きと表現されています。
こちらにあります石彫りの作品は幅8メートルで、高さは10メートルです。10の杭州歴史上有名な神話やラブストーリーが彫刻されています。
次は2階へどうぞ。2階にはまた特別な展示があります。これは甌塑(おうそ)といいます。甌(おう)は浙江省温州市の略称です。これはすなわち、温州地方の特別な塑像です。材料は粘土と植物油です。今まで900年の歴史を持ち、丈夫で耐久性にすぐれ、洗うこともできる、色落ちもしないこの甌塑は塑像の中では、中国の国宝とも言われています。杭州の空港の待合室や北京の人民大会堂にもこの甌塑の作品が飾られています。こちらに掛けられている11枚の作品は呉山と杭州にかかわる歴史上の人物、物語、事件等を描いています。
それでは上へ上がって、すばらしい西湖の景色を眺めましょう! |
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黄龍洞は西湖の北、栖霞嶺の麓にあり、宗教文化と寺、道教の建築が一体化となった場所で、新西湖十景のひとつです。
伝説によれば、南宋時代、江西省、今の南昌にある黄龍山の慧開禅師が杭州に来て、ここで庵を結びました。ある日、栖霞嶺で雨乞いをすると、突然に山にある大きな石が割れて、割れ口はまるで龍の口のようで、そこから清い水がわき出てきました。人々は、慧開禅師が、黄龍山から連れてきた黄龍が、ここにとどまったのではないか、と考えました。そこでここは「黄龍洞」と呼ばれ、のちに「黄龍吐翠」として、新西湖十景之一になりました。
そして雨が降ったことで、庵は拡張されて、後に護国仁王禅寺になりました。このお寺には、日本の僧侶も慧開禅師に師事して学び、尺八はここから日本僧によって日本へ伝えられたと言われています。その後、道教勢力の拡大によって、黄龍洞も道教建築となりました。
今の黄龍洞は、「縁」を主題にする黄龍洞円縁民俗園がメインです。あの高さ4メートル、幅7メートルの大きな石、には「縁」と書かれています。
園内には、コインを投げて、願い事がかなうかどうかを遊ぶ「投縁池」、越劇を見ることのできるところ、縁月老という、月の下の老人という意味で、婚姻をつかさどる神様をまつった場所、等があります。
黄龍洞はきれいな公園でもあります。盆栽、古木、至るところで見られます。またここを通って、西湖まで、山登りしながら行くことができます。山を登りつづけると、初陽台という日の出を見るのに絶好の場所に行くこともできます。
「竹径通幽」(じゅけいつうゆう)とい名付けられた平らな石の小道の脇には、いろいろな種類の竹が育っています。羅漢竹、孟宗竹、碧玉竹などの竹があります。中でも、番珍しいのは方竹です、四角型の竹がその特徴です。 |
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玉皇山は西湖と銭塘江の間にそびえたっています。海抜239メートルの山です。
風が吹き付けて、雲のある時分,山の頂上に立つと、耳に風がそよそよ、雲が真正面から顔に当たってくるようで、山のふもとにある湖と川は広々としてみえます、このような景色を「玉皇飛雲」と呼び、新西湖十景に数えられました。
玉皇山は、別名「玉龍山」、と言います。民間の伝説によれば、玉龍とは、天上から下りてきた一個の美しい龍が変身した姿であり、鳳凰がこの美しい玉を守りながら、杭州にやってきて、かれらが変身して玉龍山と鳳凰山となった、と言われています。
歴史をざっと述べますと、次の通りです。
唐代、ここには道教の寺院がありました。五代十国時代、呉越国の時には、寺院があり、当時の王が明州、今の寧波から阿育王像を持ち運び、ここに祭ったので、育王山ともいわれています。宋代に玉龍山と名前を変えました。明代には、山のふもとに福星観が建てられました。別名を玉皇宮とよばれ、ここでは道教の玉皇大帝を祀っています。清の初期、当時山の頂上には規模の大きい道教の道観を立てていたので、玉皇山とも呼ばれるようになりました。清末期には「西湖三大道観」の一つとなりました。
玉皇山の北の麓の林海亭から、登山の石の階段は2600段以上あり、盤山公路が山をめぐること2周半、長さは4キロメートルで、頂上に通じています。
では林海亭から、ゆっくりと道中をご案内します。
青い石を敷いた階段を、10分ほど登りますと慈雲嶺に到着です。慈雲嶺は玉皇山と鳳凰山の境目にあり、嶺の上に呉越王銭鏐(せんりょう)が建築した雲に登る壇、「登雲壇」があり、ここは後に慈雲宮と改名されました。祭典の場所です。玉皇山の道観、道教のお寺が廃止となってからは、花と木が栽培されて、ひとつの庭になっています。
慈雲亭の南の坂にはもともと仏教の寺石龍院がありました。仏教の塑像二つが残されていて、それは呉越国の時代に彫られたものです。今西湖の石窟の代表作でもあります。
慈雲嶺から西へ登ると、突然一つの坂が目に見えてきます、この坂は金門敷居といいます。神様の住む所へ行くにはここをまずまたぐ必要がある、と言われています。金門敷居を跨いで、紫来洞の側を山道に沿って登り続けると,玉皇山の福星観に到着します。
紫来洞は玉皇山の中腹にあります。洞窟の入り口には3室の高さの異なる部屋があり、洞中に洞のある形式の「西湖七大古洞」の一つです。
福星観は、清代の雍正年間に立てられた、別名玉皇宮ともいわれる、西湖で最も規模の大きい道教建築でした。中心には山門、真武殿、大羅宝殿、半姆殿などがあります。脇には三清殿、三官殿など付属の部屋があります。現在、道観はもう存在しておりません。しかし、新しく建てられた建物に、登雲閣、望湖楼などがあり、みなさんはここに登って景色を眺めることができます
紫来洞の上方には七星亭があり、亭のかたわらにはもともと清代雍正年間に設置された七つの大きな鉄製の瓶が、「北斗七星」のように配列されています。昔、杭州は火災が多く、道士が、瓶に水を満たして、このように並べて、火龍を鎮めた、と言われています。そのため、これらは「七星かめ」と呼ばれています。
南を見下ろしますと八卦田の景色を眺めることができます。ここ八卦田はもともと南宋の皇帝が、「籍田」(せきでん)を行うための場所でした。「籍田」(せきでん)とは古代中国の周の国で行われた儀礼で、天子(君主)が国内の農事を励ますため、自ら田を踏み耕し、収穫した米を祖先に備えたことから始まったものです。日本でも、江戸時代、米沢藩主、上杉鷹山(うえすぎようざん)が農業・耕作を励ますため「籍田の礼」(せきでんのれい)を行っています。ご存じでしょうか?
この「籍田」の形は八角形だったのですが、田んぼがあぜ道で区切られ、中心の円形の土が盛り上がって、遠くから眺めると、風水でおなじみの「八卦」(はっけ)の形をしているので、ここは八卦田(はっけた)と呼ばれるようになりました。
玉皇山から見下ろしますといかにもなんとも言えない不思議な形をしていますね。 |
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皆さん、おはようございます。本日は、宋城をご案内いたします。この宋城という見所は、西湖から西南の方向に位置し、北は五雲山、南は銭塘江に接しています。宋城は杭州宋城集団有限公司が投資、建設し、2005年の愛知万博の中国パビリオンでも展示されました。北宋時代の有名な画家が画いた「清明上河図」(せいめいじょうがず)を再現した中国最大の宋代文化テーマパークです。「一日の時間で、千年の時間を楽しむ」
これが宋城グループのキャッチフレーズです。では、1000年前へタイムスリップして、宋文化を堪能しましょう。
ここは、宋代の著名な画家であるが書いた絵巻と宋代の建築様式を参考にして、当時の街の様子を再現しています。
内部は、「清明上河図」をそのまま再現したとエリアと、九龍広場、宋城広場、仙山瓊閣、南宋皇宮、南宋風情苑などのエリアに分かれています。
店舗や、宿泊施設等も含めた街全体が、北宋と南宋の繁栄した都を再現しています。現在、は世界テーマパーク協会会員にもなっています。
宋代(西暦960-1279年)は中国の封建社会が発展、成熟した時代で、その経済、技術、文化の発展は、当時の全世界の先端を行くものでした。宋城は北宋、南宋の両文化を取り入れ、杭州の宋文化と歴史を遊ぶ空間を作り出しています。浙江省及び杭州の有名観光地として、中国人観光客の歓迎を受けています。
夜になると、宋城の大劇場では、南宋時代を蘇らせる4部のエンターテインメント・ミュージカルは行われます。これは見逃せません。中国の民族舞踊とフランス、アメリカ舞踊をミックスした迫力のある「宋城千故の情」では、めまぐるしく動く迫力有る舞台に、きっと釘付けとなるでしょう。終演後は出演者との記念写真撮影もできます。
今、私たちがいるこの入り口前の広場は「九竜広場」と言います。ここに高さ10メートル、直径1メートルの「九竜柱」があり、伝説によれば中国人は竜の伝人(後代の人)なので、ここの「麒麟」と竜は、一緒宋城の入り口前の門守(かどもり)の神となっています。
入り口を通りまして、ここはは「清明上河図」再現エリアの一つ、宋城広場です。宋代の特徴をもつ、反り返ったような建築物や、馬車が盛んに往来する様子は、宋代の風情を感じることができます。あの広大な規模のの滝は、非常に躍動感があります。
これは「歴代柱」と言う柱で「漢」から「唐」、「宋」、「元」,「明」、「清」などそれぞれ中国22の歴史をあらわしています。「華表」(かひょう)と言われる中国で宮殿・・の前によく立てられる石柱もここにあります。
中国語の「月老」は日本語「仲人」の意味で、「月老祠」は「月老」この「仲人」を祭っている所で、ここで線香をたてて拝むといい嫁或いはいい婿を見つけられると言われがあります。
「月老祠」の反対側には、「」がありますが中国語の「財神」は日本語「恵比寿」にあたる神様で、つまりここで拝めば商売がうまくいき、金持ちになれるという意味があります。
この城門は北宋時代の有名な画家が画いた「清明上河図」を再現したものです。隣にある像はこの「清明上河図」を描いた宋時代の画家、張択端さんです。城門を通ると宋城の芸術広場で、ここでは古今の奇観を集めたられています。南北の味を集めた軽食街は、観光客に宋代の味を楽しむ最高の場所となります。
さん、いま奥に進みました.ご覧のとおり、ここには天秤の量り、弓、乗馬、猿まわしなどの芸を見ることができます。1000年前の町に戻った感じがしませんか?
ではご覧ください。
いま見えている幅40メートル、高さ20メートルの噴水は、夜になると、なんと映画の剥くリーンになります。「岳飛の金の兵隊退治」「愛in人間」などの“ウォータースクリーンの映画“を楽しむことができます。
ところで「岳飛」と言う人は南宋時代の将軍の一人で国の南宋を守るため北方金国の侵略に抵抗し戦いましたが朝廷の投降派によってれをせられてされました。ですから「岳飛」は民族英雄として中国人の人々に尊敬されています。杭州には彼を祀った岳飛廟がありますから、みなさんもご存じかと思います。
この辺りは宋城内にあるレストランの町です。中国の飲食文化の歴史も長く、聞くところによると北宋の開封市には高級な料理店、俗称の“正店”は72件あったそうです。ちなみに小さいレストランは“足店”と呼ばれていました。宋城内は小吃街があって、南北の食べ物が集まっています。ここではもちろん、杭州の有名な料理の「宋の魚スープ」、「東坡肉」、「乞食鶏」なども味わえます。
皆様、時間に限りがありますので、宋城のご案内はここまでとさせていただきます。後は自由にお楽しみください。集合時間は・・・ |
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虎跑泉の入口から、登り坂を約1.5キロ登ると、杭州動物園と虎跑泉の両方の裹門に着きます。この動物園は1975年に造られたもので、面積は0.2㎢です。山の自然環境を生かしているのが特徴で、自然の動物園とも言われています。では、虎跑泉を後にして、動物園の裏口に入りましょう。
この動物園は金魚館、爬虫類館、パンダ館、草食動物園、熊の山、猿の山、虎の山、等があって、日本の動物園と似ています。ただ、浙江省特産のジャコウネコ、ウグイス、金魚、へビのほか、バンダ、キンシザル、クジャク、丹頂ヅル、ライオン、東北トラなど珍しい動物も揃っています。
日本でもおなじみの、「動く芸術品」とも言われる金魚は実は浙江省生まれで、その金魚館が動物園の東にあります。中に40余品種の金魚が飼われています。金魚は南北朝時代にすでに飼育されていて、宋代になって養殖が盛んになったと言われています。日本には室町時代に伝来して、江戸時代に養殖が始まったそうです。
動物園の真中にあるバンダ館は、観光客に特に喜ばれている所です。パンダは中国特産の珍しい動物で、中国の国宝です。尾がクマに、顔がネコに似ていて、庭付きの「邸宅」に住み、ゆったりと竹の葉を食べたり、でっぷりした体を動かして木に登ったりして、可愛らしい姿で、杭州の人々に可愛がられています。
杭州動物園はさらに園内を自然いっぱいにするために、カンキツ、リンゴの木などを植え、草や花を栽培し、緑あふれるきれいな動物園になるよう努力しています。 |
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皆様、こんにちは。これから、市中心部から、車で20分ほどのところにあります「雲棲竹径」にご案内いたします。
「雲棲竹径」は銭塘江の北、五雲山の西にあります。特殊な地理的環境によって、漂う雲が常にこの場所に集まり長くとどまるため、雲が棲む、「雲棲」の竹の道、「雲棲竹径」と名付けられました。
ここは道の両側に竹がたくさん植えられており、まるで絵のような風景が広がっています。どこか京都の嵯峨野に似た雰囲気があります。
ところで、もしかすると、皆様は、今日ここを見るのが初めてではないかもしれません。女子十二楽坊が、CMの撮影に使用したのがここ、雲棲竹径なのです。
ここ春になると、土を割って現れた竹の新芽が、大変生気に満ちた姿をみせてくれます。夏には、千本の竹が生い茂り、さまざまな木々がゆらゆらと動き、蒸し暑い杭州の中で、涼しい雰囲気を作り出します。秋には、地面を紅葉した葉っぱが埋め尽くし、小道は秋の寂しさ、風情を演出しています。冬には、翡翠のような竹の中で、ひっそりとした趣が生まれます。
雲棲は茶葉の生産が盛んで、杭州の四大茶葉の一つに数えられます。雲棲や梅家塢一帯は土壌の質が極めて良いため、茶葉の生産に相応しく、そのため杭州の主要な茶葉の生産拠点となっていて、出産量は大変多く、それは国内外でも有名です。
それでは、皆様が貴重品をお持ちになって、足元に気をつけて、降りましょう。「雲棲竹径」で散歩しましょう。
一面竹に囲まれたこの小道には、三つも東屋があります。洗心亭、回龍亭、遇雨亭です。ゆっくり歩きながら、杭州の竹林を楽しみましょう。 |
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京杭大運河は、万里の長城とあわせて、世界の4大古代工事のひとつに数えられています。世界で最も古く、最も長い人工運河です。北は北京、南は杭州まで、天津、河北、山東、江蘇、浙江の1市4省を通り、銭塘江、長江、淮河、黄河、海河五大水系と繋がっています。全長は1794メートルにもなります。 これは太平洋と大西洋をつなぐパナマ運河(1914年竣工)の長さの21倍で、地中海と紅海をつなぐスエズ運河(1869年竣工)の長さの10倍に相当します。しかもこのふたつの運河より2000年も早く建設されています。どれだけこの「京杭大運河」がすごい大工事であったかがわかっていただけるでしょう。ちなみに、日本は、北海道から沖縄までがだいたい3000キロですから、その3分の2の長さに匹敵するのです。
では、その歴史や概況についてお話しましょう。 中国には「南船北馬」ということばがあります。古くから、江南地方では、水運が発達していましたが、華北地区では、馬に頼っていました。この不便を解消するために、戦国時代から各地に運河が造られました。例えば、春秋時代の紀元前486年、呉王夫差が開削した江都(今の揚州)と口(今の淮安)間の南北を結ぶ水道邗溝等がそれです。漢代には、黄河から長安へ、また南の開封への運河が開通していていました。 その後、魏晋南北朝の時代に、これらの運河は荒廃していきました。しかし、北朝(北周)から出た隋の文帝が、淮水の楚州と長江の揚州を結ぶ山陽瀆(とく)を完成させて、589年に南朝の陳を滅ぼして、南北を統一しました。 随は、歴史的に短命の王朝ですが、杭州にとって意味の大きい時代です。杭州を起点とする南北の大運河をこの王朝は作ったのです。これにより、杭州は都市として大いに発展することとなりました
そして隋の二代目皇帝、煬帝が黄河から北東に延びる永済渠(えいさいきょ)、淮河と黄河を結ぶ通済渠(とうさいきょ)、揚州から杭州)を結ぶ江南河を開通させました。こうして北の黄河と南の揚子江が結ばれて、大運河は完成しました。完成したのは610年、今から約1400年前のことで、その長さは2500kmを越えています。 記述によれば、通済渠の建設には河南・淮北一帯の100万人の農民たちが動員され、わずか5か月間で完成したそうです。わずか5ヶ月という短期間で作られたことから、この運河がまったく新しく開削されたものではなく、昔からあった旧運河を改修したり、つなげたりしてつくられたものであったことがわかります。
煬帝はこの運河の完成を待ちながら、竜船等の豪華船を建造させて、それに大勢の美女を乗せ、酒宴を催しながら江南への豪遊を行いました。
また、永済渠(えいさいきょ)の建築は、高句麗遠征のためでした。
大運河の開通は、経済的に先をいっていた南と北が連結され、中国全体のモノの流れが便利になりました。その経済的、文化的、政治的な影響力は計りしれません。大運河の建設に多くの人々を動員して苦しめた事を打倒隋の大義名分の1つとした唐こそ、この大運河の恩恵を受けたのです。大運河の開通によって、地元の食糧事情を安定させることができました。遣唐使の最澄や空海などの日本からの留学生も、もちろん寧波から入って、ここを通って長安入りしています。 開封は永済渠と通済渠の結節点になっており、このことにより経済的な重要な五代十国から北宋の首都になり、北宋の開封城では城内を運河が貫通していました。
金が華北を占領すると大運河の流通が止まってしまい、整備もされなくなり、廃れてしました。しかし元が、南北を占領した後、再び新しい運河が開かれました。
元は、首都が大都、今の北京に置かれていたので、一旦開封を回って北京へ至るそれまでの大運河は不便でした。そこで杭州から北へ進み天津へ繋がる運河を開削しました。しかし、元代では海運が発達し、対外貿易を主にしていたためにそれまでに比べると重要度が落ちていました。
明代に入ると、この運河は、再び重要視されるようになりました。明は海禁制度(貿易禁止)を取っていたので、水運が見直されたのです。明によってまた新たに開削されて、杭州から北へ進み准安、徐州、済寧、滄州、天津となる運河が現在の大運河となりました。 日本はこのころ、ご存じの通り、室町時代です。日明貿易で、日本からやってきた使者も、この運河を通って、北京まで赴いています。
新中国成立後は、国は京杭大運河を、重点的に発展させるべき内陸河川運輸のメインルートのひとつに指定しました。特に改革開放以後、運河建設は、さらに加速しました。運河は流通に重要なだけではなく、同時に洪水防止、灌漑、給水、観光等の役目を担っています。長い歴史を持つこの運河は、今も改築されていて、今後も運河沿線における経済と文化の発展に、重要な役割を果たし続けるでしょう。
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西渓国家湿地公園は杭州市区西部の天目山路にあり、面積は10.08平方メートル、水面面積は8000平方メートル、です。後漢に発見された杭州3西(西湖、西冷印社、西渓)の一つです。西渓国家湿地の生態資源は豊かで、クワ、竹などの植物は221種類があり、白鷺、ホトトギスなどの鳥類は29種類があります。西渓湿地は美しい自然景色と長い歴史文化を持っています。
【烟水漁庄】
水郷荘園式の別荘です。「烟水」には三つの意味があり、柳の烟、雲の烟、炊事の烟、の3つです。漁庄では、淡水魚の料理を食べることができます。たくさんの人が、竹ざおを持って西渓の堤に座って、魚を釣っています。
また烟水漁庄には西渓農家生活原生態展示館もあり、昔の西渓地区の農家の生活が再現されています。
【深潭口村】
西渓湿地西北部にあります。村には深い潭があるので、深潭口と呼ばれています。両側には三株百年のクスがあります。毎年の端午の節句の時、ドラゴンボートレースの祭りはここに開催されます。
【秋雪庵】
宋代に立てられたもので、民間式の庭園です。庵には霊峰下院、渕圓修堂、報木堂などの古跡があります。
【西渓水閣園】
西渓の農民が休憩する場所です。西渓の民族文化の雰囲気が溢れています。
【西渓草堂】
昔の主人は明の時代有名な文人馮夢楨です、今は西湖高級中学校の中にあります。
沿岸には梅墅、香雪屋、探春亭、共山小筑などの農家独特の別荘と清代の文人章次白が建てられた梅竹山庄があります。
西渓国家湿地公園の農家料理もおいしいですよ。オススメ料理は西渓小魚と豆腐の煮込み、西渓の鶏肉料理、キクラゲと豚肉のスープ等です。 |
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それでは、天目山の概況をご案内します。
天目山は、浙江省臨安県にあります。面積の4300ヘクタール、1956年、我が国最初の自然保護区の1つです。1986年国務院に認可された国家級の自然保護区です。主な保護対象に、イチョウ、連香樹、ユリノキなどの稀少な絶滅危惧のある植物があります。1996年には、ユネスコのMBA(「人と生物圏」保護圏)に加入しました。
天目山は、何億年前からの地形変動により、4つの渓流、5つの沼地、6つの洞窟、7つの谷、8つの台、9つの池、12の岩、27の石、28の峰があります。
天目山は東と西に分けられるのですが、東はまだ開放されていません。今からご覧頂くのは、西側の天目山、西天目です。
西天目は、亜熱帯モンスーンの温かい気候によって、木が多い茂る独特の原始林風景が作られています。植物の種類は、豊富で、なんと氷河期からあるイチョウもあります。ここの自然保護区には、高等植物が約2160種、動物が2300種類、国家の重点保護に指定されている動植物は、各35種類あります。「天目」の名をつけられた動植物も、それぞれ、48、37種あります。
天目山はその独特の風景で、古代から近代まで、詩人、画家などを引きつけました。例えば、唐代の李白、白居易、等です。またいくつか寺が残されていて、儒教、道教、仏教文化が一体になった宗教文化の山でもあります。
ところで、ここは1年の200日以上が霧で覆われていて、独特の気候をもっています。茶でも有名です。天目青がその代表です。ほかにも天目たけのこ、天目豆など、がここの特産になります。ここのレストランでは、美味しい山菜料理を味わうことができます。
それでは、保護区内に入っていきましょう。ここからは当然、禁煙ですし、一本の草木を折ることも、もちろん許されません。気をつけて歩いてください。 |
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杭州、ここは中国の沿海部、浙江省の北側にあり、昔は「銭塘」又は「臨安」と呼ばれていました。北緯30度15分、東経120度16分、日本の鹿児島県屋久島とほぼ同じ緯度です。気候は、亜熱帯に属しており、四季の移り変わりがはっきりしていて、年間平均気温は16.3度、また年間降雨量は1500mmです。地理的には山々に囲まれているので、40度を平気で超えるほど夏は暑く、冬は寒いです。6月から7月にかけて梅雨があり、9月も雨が多くなります。雪は滅多に降りません。年に1度降るか降らないか程度です。
杭州の北は上海で、東は寧波です。航路、鉄道、高速道路、水路が発達していて、交通も大変便利です。現在、車で市内から杭州地区内の町、どこへも1時間半以内に着けるようになりました。2006年からは地下鉄建設も正式に始まります。予定としては2050年までに地下鉄が合計11路線建設されます。杭州は東南沿海部の交通要所の一つといっても過言ではないでしょう。
杭州市を中心とする杭州地区の総面積は16.596平方キロで、総人口は624万あります。中では杭州市だけの人口は392.2万です。
杭州は古くから風光明媚な景勝地として広く知られております。中国の諺「上に天堂(天国)あり、下に蘇(蘇州)杭(杭州)あり」というように杭州は地上の楽園とうたわれた大変住み易い町です。2200年前に秦の始皇帝が、杭州付近に銭塘県を設けてから、隋の時代まで杭州はただの地方都市でしたが、隋代に完成した京杭大運海の開通によって、杭州は中国の南北を繋ぐ重要な交通と貿易の拠点となりました。また、1138年からの150年の間、南宋王朝の都として栄えました。中国7大古都の一つに数えられます。清代の康熙帝も乾隆帝もよく杭州を訪ねました。杭州のいたるところで、その痕跡を見ることができます。
現在の杭州は浙江の省都で浙江省の政治、文化、経済の中心地となっています。
杭州は自然に恵まれており、山、湖、泉、庭園などが至る所にあります。四季折々の風景は人々を魅了し、古くから人に愛されてきました。杭州市内に六和塔、霊隠寺、雷峰塔等の名所旧跡のほかにも、中国シルク博物館、中国茶葉博物館、中国官窯博物館、中国胡慶余堂博物館等の博物館があります。重要指定文化財の旧跡も計14ヶ所あります。銭塘江大逆流山、天目自然保護区、千島湖森林公園、大奇山森林公園、午潮山森林公園、富春江森林公園、青山湖森林公園などの自然溢れる公園も杭州の周辺にあり、年間2000万人もの観光客が訪れて来ます。レジャーにふさわしい場所であり、2006年には、レジャー博が行われます。
杭州は、昔からおいしいものがあふれる街、シルクの都、お茶の産地として有名です。唐代から絹の生産、紡績業が盛んです。地元の龍井茶は、中国でも特に有名なお茶です。日本人の方は、中国人は烏龍茶をよく飲んでいる、と思われているようですが、実は生産量がいちばん多いのは、この龍井茶を代表とする緑茶なのです。他にも、張小泉のはさみ、王星記の扇子なども杭州の名産です。杭州から、車で1時間ほど行った先にある紹興市の紹興酒は、みなさまもご存じでしょう。
ぜひ、日本へ何か1つおみやげに購入されて帰ってはいかがでしょうか。 |
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《臥薪嘗胆・呉越同舟・会稽の恥》
日本のみなさまは、「臥薪嘗胆」「呉越同舟」「会稽の恥」という言葉をご存じかと思います。当時、境界を接する呉国と越国との間で約30年にわたる戦争が続けられていました。
呉国とは現在の蘇州を中心とした地方を指し、越国こそ現在、紹興を中心とした地方を指します。
ある時、越を攻めていた呉国の王様が負傷して死んでしまいました。皇太子の夫差は越へ報復を誓います。この夫差は薪の上に寝て復讐心を忘れないようにしました。これを薪に臥す、すなわち「臥薪」と言います。
数年後、越王、勾践を撃破し、会稽山に降伏させました。勾践は人質として呉国へ連行されます。
勾践は呉国の都で石室に住んで、ぼうぼうの頭に汚い衣服を着て、「馬を飼う」という生活を送りました。辛酸をなめ尽くして、勾践は三年後に釈放され、越に帰りました。このことを「会稽の恥」と言います。
帰国した勾践は「会稽の恥」に復讐を誓い、あのつらく苦しい日々を忘れないために、食事のたびに苦い動物の胆をなめました。これを「嘗胆」と言います。嘗胆すること10数年、その間、優秀な大臣範蠡は兵力を整えて国力を高め、呉に対しては逆に国力を弱める数々の策をめぐらしました。
例えば、呉王夫差に美女西施を送って、彼の心を惑わせ、呉国の政治を乱そうとしました。
紀元前473年、越はついに呉を破って滅ぼしました。これは「会稽の恥」から14年目のことです。
しかし、こんなに中の悪かった両国の人民も、揚子江(ようすこう)をわたる交通機関は船であったので、同じ船に乗り合わせることがあり、そんなときには、けんかはしなかったことから、「呉越同舟」という言葉が生まれました。
「臥薪嘗胆」 復讐のためにあらゆる苦労や悲しみに耐え忍ぶこと、成功を期待して苦労に耐えること
「呉越同舟」 仲の悪い者同士が同じ場所にいあわすこと、敵同士が共通な困難にあたってお互いに協力し合うこと
「会稽の恥」 それまで経験したことがないほどのはずかしい思いのこと、屈辱的な恥のこと |
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