京杭大運河(杭州一段)は運河全体の最南端で、「运河水乡处处河,东西南北步步桥(運河水郷の至る所に河があり、東南西北の至る所に橋がある)の独特な水郷趣を持つところである。両岸に立ち並べる路地建築、飲食服飾、習慣風俗、官民礼儀等は多彩な杭州運河文化を形成して、数多くの人文景観を残していた。水上バスに乗って、悠々と楽しんでいただける。 
 
小河直街 
小河直街歴史文化街区は商店、住居、レジャーの機能を一体とする歴史文化街で、一定の数量の歴史建築を保留して、清の末民国初期の庶民居住生活文化、生産労働文化と商業埠頭航運文化を集中的に反映している。 
大兜路歴史文化街区 [ 運河周辺観光地案内図
大兜路歴史文化街区は運河大関橋から江漲橋の一段の東岸を指す。今は香積寺の石塔、国営シルク工場の倉庫、大量の清末民国初期の民居建築が保存されている。杭州下町の歴史風貌を見せる街風景の一つである。 
富義倉 
運河と勝利河の交差点にある富義倉は清光緖6年(1880年)に造られた南方食糧を北方へ運ぶ中継の場所で、「天下の穀倉」と言われていた。現在、倉庫が三つ、埠頭を残してあって、それを今、創作園区として、「物質的穀倉」から「精神的穀倉」に変わった。 
中国京杭大運河博物館 
中国京杭大運河博物館は多様な機能と特性を持つ総合運河文化センターで、館内では大運河の豊富な自然人文系館を展示している。
住所:運河文化広場の南側、拱宸橋の隣
中国刀鋏剣・傘・扇子博物館 
中国刀鋏剣博物館、中国扇子博物館、中国傘博物館は国家級のテーマ博物館で、我が国の悠久な刀、鋏、剣、傘と扇子の技術を宣伝し、伝統手工芸を発掘と保護すると同時に展示と収蔵を兼ねている。
住所:小河路336号-450号(拱宸橋西歴史文化街区)
 
運河水上バスのナイトクルーズ 
武林門埠頭―御埠頭―富義倉―乾隆坊―大兜路—小河直街—橋西直街—拱宸橋—武林門埠頭(全コース12キロ、所要時間:1時間)  
運河の美食 
大兜路美食街:「杭州グルメストリート」と言われ、デザートから名物料理まで、100軒余りのレストランが立ち並べ、美食もあり、美しい景色もあるレストラン街である。グルメの人に満足していただけると思う。 
勝利河美食街:勝利河美食街はまた古水街とも呼ばれ、赤提灯とアンティーク建築と輝きあい、工芸観光記念品エリア、BBQエリアとグルメエリアを分けて、10軒余りの名店が入って、日本の寿司、鳳凰寺の羊スープ、台湾、杭州の名物料理はあなたの味蕾を誘惑している。

   
[ 中国京杭大運河博物館 ] 運河文化プラザ南側 TEL0571-88292420
京杭大運河南端の杭州拱宸橋近く。現在中国で唯一の京杭大運河についての大規模博物館である。建築面積は10000㎡。展示は「京杭大運河の開削と変遷」「大運河の利用」「川沿いの都市と運河の文化」など4つのコーナーに分けられ、運河に関係する大量の出土品や模型、超縮小化景観模型とハイテク音、光などの技術で楽しめる。

京杭大運河は、万里の長城とあわせて、世界の4大古代工事のひとつに数えられています。世界で最も古く、最も長い人工運河です。北は北京、南は杭州まで、天津、河北、山東、江蘇、浙江の1市4省を通り、銭塘江、長江、淮河、黄河、海河五大水系と繋がっています。全長は1794メートルにもなります。これは太平洋と大西洋をつなぐパナマ運河(1914年竣工)の長さの21倍で、地中海と紅海をつなぐスエズ運河(1869年竣工)の長さの10倍に相当します。しかもこのふたつの運河より2000年も早く建設されています。どれだけこの「京杭大運河」がすごい大工事であったかがわかっていただけるでしょう。ちなみに、日本は、北海道から沖縄までがだいたい3000キロですから、その3分の2の長さに匹敵するのです。

では、その歴史や概況についてお話しましょう。中国には「南船北馬」ということばがあります。古くから、江南地方では、水運が発達していましたが、華北地区では、馬に頼っていました。この不便を解消するために、戦国時代から各地に運河が造られました。例えば、春秋時代の紀元前486年、呉王夫差が開削した江都(今の揚州)と口(今の淮安)間の南北を結ぶ水道邗溝等がそれです。漢代には、黄河から長安へ、また南の開封への運河が開通していていました。その後、魏晋南北朝の時代に、これらの運河は荒廃していきました。しかし、北朝(北周)から出た隋の文帝が、淮水の楚州と長江の揚州を結ぶ山陽瀆(とく)を完成させて、589年に南朝の陳を滅ぼして、南北を統一しました。随は、歴史的に短命の王朝ですが、杭州にとって意味の大きい時代です。杭州を起点とする南北の大運河をこの王朝は作ったのです。これにより、杭州は都市として大いに発展することとなりました。そして隋の二代目皇帝、煬帝が黄河から北東に延びる永済渠(えいさいきょ)、淮河と黄河を結ぶ通済渠(とうさいきょ)、揚州から杭州)を結ぶ江南河を開通させました。こうして北の黄河と南の揚子江が結ばれて、大運河は完成しました。完成したのは610年、今から約1400年前のことで、その長さは2500kmを越えています。記述によれば、通済渠の建設には河南・淮北一帯の100万人の農民たちが動員され、わずか5か月間で完成したそうです。わずか5ヶ月という短期間で作られたことから、この運河がまったく新しく開削されたものではなく、昔からあった旧運河を改修したり、つなげたりしてつくられたものであったことがわかります。

煬帝はこの運河の完成を待ちながら、竜船等の豪華船を建造させて、それに大勢の美女を乗せ、酒宴を催しながら江南への豪遊を行いました。また、永済渠(えいさいきょ)の建築は、高句麗遠征のためでした。大運河の開通は、経済的に先をいっていた南と北が連結され、中国全体のモノの流れが便利になりました。その経済的、文化的、政治的な影響力は計りしれません。大運河の建設に多くの人々を動員して苦しめた事を打倒隋の大義名分の1つとした唐こそ、この大運河の恩恵を受けたのです。大運河の開通によって、地元の食糧事情を安定させることができました。遣唐使の最澄や空海などの日本からの留学生も、もちろん寧波から入って、ここを通って長安入りしています。開封は永済渠と通済渠の結節点になっており、このことにより経済的な重要な五代十国から北宋の首都になり、北宋の開封城では城内を運河が貫通していました。

金が華北を占領すると大運河の流通が止まってしまい、整備もされなくなり、廃れてしました。しかし元が、南北を占領した後、再び新しい運河が開かれました。元は、首都が大都、今の北京に置かれていたので、一旦開封を回って北京へ至るそれまでの大運河は不便でした。そこで杭州から北へ進み天津へ繋がる運河を開削しました。しかし、元代では海運が発達し、対外貿易を主にしていたためにそれまでに比べると重要度が落ちていました。明代に入ると、この運河は、再び重要視されるようになりました。明は海禁制度(貿易禁止)を取っていたので、水運が見直されたのです。明によってまた新たに開削されて、杭州から北へ進み准安、徐州、済寧、滄州、天津となる運河が現在の大運河となりました。日本はこのころ、ご存じの通り、室町時代です。日明貿易で、日本からやってきた使者も、この運河を通って、北京まで赴いています。

新中国成立後は、国は京杭大運河を、重点的に発展させるべき内陸河川運輸のメインルートのひとつに指定しました。特に改革開放以後、運河建設は、さらに加速しました。運河は流通に重要なだけではなく、同時に洪水防止、灌漑、給水、観光等の役目を担っています。長い歴史を持つこの運河は、今も改築されていて、今後も運河沿線における経済と文化の発展に、重要な役割を果たし続けるでしょう。